🙄 満開の桜の木はこれ一本だけ、残りの桜は2,3分咲程度! 残念でした!😥
😀 散歩中に見上げた雨上がりの桜の木です。 間も無く開花しますね~! 🙄
<遠い昔の思い出 24. シアトル野次喜多道中> [最終回]
会社を退職して、暇なものですから、学生時代の友人と色々変わったことをして暇つぶしをしました。
その友達は、現役の時は、百貨店の常務だったそうですが、いつのことか聞き漏らしましたが、別府に支店を出すべしで別府にいたことがあります。その時に知り合ったという魚の養殖業をしている人を紹介されました。
フグとウナギの養殖をしているのですが、その美味しいこと。暇なものですから、フグをアメリカに持って行ったら皆喜ぶのではないか?と妙なことを酒飲み話で思いつきました。二人ともやり出すと夢中になるタイプですから、弁護士やらコンサルタントやらに相談しまくり、結論、現地に持っていって聞いてみようとなりました。アメリカ・シアトルの知人を頼りに、日本レストランを紹介してもらい、とりあえずサンプルを輸出し、すぐにもアメリカに行く準備をしました。
ところが、更に調べていると、インターネットで嫌なものを見つけました。アメリカへのフグの輸出は、色々と制限があるのです。
やれ空港はニューヨーク近郊のJFK一箇所に限定されているとか、○X△協会だけがフグ毒の有無の検査ができるとか、輸入は年何回と決められているとか‥‥‥。友人に、
「こんなのをネットで見つけた。フグの輸出はあかんな。」
しかし、もう半分乗りかかった船です。友人も色々調べて、
「ナゴヤに面白いコンサルタントがいて、ちょっとその人の話をきこか」
わざわざ、名古屋にまで出かけました。
なんでも、中国から帰ってきた元残留孤児の女性で、中国の輸出手続きなどに詳しいとのことでしたが、
「私も調べたが、アメリカの輸入条件はアメリカと日本のフグ取引についてだけ決めているので、中国経由にすればなんの問題もない。私が仲介をしてあげましょう」
と、こともなげに言います。話が煮詰まったらまた連絡することで、その日は終わりました。
とりあえず現地へ行ってみようと、紹介されたシアトルのレストラン宛にフグを送りました。現地に行って、レストランを訪ねました。大きなショッピングモールの中にそのレストランはありました。
「こんな新鮮なフグならいくらでも欲しい」
とのことでした。フグは日本で出して二泊三日ほどで着荷していました。保冷剤もまだ硬いままでした。
ところが、店の主人が「こんなものが来ています」と一枚もののレターを見せました。
なんと、
「最近、日本からフグの輸出をしようとする動きがあるが、フグの輸入は、我が社一社という政府間協定がある。妙な画策をするものたちと連絡したりしないように。」
背筋が寒くなりました。非常に好意的に見えたシアトルのレストラン以外この話を知っているのは日本サイドだけですから、このレストランからこの協会に話が行ったとしか考えられません。業界の闇をみたような気がしました。
その夜、友人と酒を飲みながら、
「暇つぶしにするような事ではないなあ。怖いなあ。やめよか。」
「やめよ、やめよ」
とあっさり手を引くことになりました。
翌日、さっさとサンフランシスコに行き、ビジネス旅行が観光旅行に早変わりしました。二人とも頭の中にはフグのフの字も無くなっていました。
今回で、遠い昔の思い出も最終回とさせていただきます。
満一年、毎回写真などの彩りを添えて、掲載していただきました西野さんはじめ、駄文にお付き合いくださった方々にお礼申し上げます。
ありがとうございました。
<遠い昔の思い出 23. 元宵節>
「元宵節」‥‥ご存知でしょうか?
私は不勉強で知りませんでした。最初にこの言葉に出くわしたのが、中国でした。元宵節「イエン・シャオ・チエ」と聞こえました。
「こんな大事な宵に食事を誘うとはどういう考えか」
相手さんは、すごい剣幕でした。
話は前後しますが、当時、電子部品の取引に使う電子カタログの国際標準についての政府プロジェクトで中国・韓国・タイ・インドネシアなどと情報交換の会議を順次行っていたのですが、その年の最初がこの日でした。日本側は一番プロジェクトの理解がいい加減な私がリーダーで、事務局・通約入れて5名の小さな世帯。場所は、経済産業部、国の役所の下部組織です。
中国はご存知の通り旧暦でお正月を祝います。よって、正月(春節)はのお月様は新月です。これが15日経つと満月となるわけで、この節の最後の宵を元宵節として赤い提灯などを飾り、お団子を用意して家族や知人とお祝いするとのこと。知りませんでした。春節の正月に次ぐ大事な日‥‥‥。
「なんで今夜なのか?明日でもいいではないか」
「明日、帰国しますので、残念ですが、また今度の機会に」
「帰国を伸ばせばいいではないか、今晩中にチケットの変更はできる」
というのを懸命に断って、おしまいにしました。
これは同じ役所で別の時のことですが、向こうさんのお招きで、会食をしたことがあります。総勢10名位でしたが、部屋の雰囲気がなんとなくピリピリしています。一人ずつ案内されて、席につきました。大テーブルの上にはオードブルらしきものが、見るからに贅沢に載っています。
先方の挨拶で始まりましたが、ちんぷんカンプンです。通訳をしてもらいましたが、紋切り型の挨拶だったと記憶しています。私からも、忙しい中、こんな場を用意してもらって申し訳ない、今後の連携が円滑に行くよう祈っています、と紋切り型の挨拶を返しました。
その後です、えらいことが持ち上がったのは。テーブルのド真ん中に据えられているスッポンの姿蒸し。これの頭をメインゲストの私が食べると今日の会食がはじまるとのこと。テーブルがぐるりと回され、半透明のスッポンの顔が真っ直ぐこっちを睨んでいます。参加者の全員が注目しています。貴重な食材だというのですが、ゲテモノ?に全く意気地のない者ですから、隣の人(向こうの代表)に食べてもらいました。よほどその時の私が見っともなかったのか、その後誰も話題にしませんでした。
🙄 昨年2月から1年間お世話になった「遠い昔の思い出」投稿文は、今回で終了となりました! 今後は写真投稿をお願いしていますのでご期待ください😁 私も後少しだけHP頑張ろうと思っています(s,n) 🙄
< 遠い昔の思い出 22. アメリカ、驚きの超一流 >
会社で「決算にかかる時間を短縮せよ」というトップからの指示が出たことがありました。経理の人と私がアメリカまで調査に行くことになりました。ついでに、システム・センターのセキュリティも見てこいとのことでした。
一緒に行く経理の人が年上で、しかも外国出張が初めてということで、周りはご苦労な出張だと気の毒がってくれました。本当に気骨の折れる出張でした。しかし、それまでのような、いわばどさ回りのような出張でなく訪問先が超一流ばかりで、これまでの経験が通用しない出張でした。
マンハッタンのど真ん中の法律事務所。話題の小室氏が務めるのはあんな事務所かなあ、と今にして思います。各弁護士が大きな個室を持って、おそらく秘書や見習いの書生を抱えているのでしょう。
そんな弁護士先生の紹介である会社に行きました。仕事のことはさておき、建物の古さにまずビックリ。1800年代とかに建てられたと言うレンガ作り。そう、舞鶴のレンガ博物館そっくり。建物の内装はやりなおしたのだそうで、中はピカピカの最新オフィスでした。
経理システムの紹介があまりにもオープン・詳細な説明で、感心して聞いていました。その後、昼ごはんをご馳走になったのですが、なんとそこは公園のような木立に囲まれた瀟洒な建物で「メンズ・クラブ」だというのです。あの男女平等にうるさい国で会社の施設として「メンズ・クラブ」があるのです。中に入ると直ぐに女性がいました。小声で聞いてみましたら、掃除のおばさんと。メンズクラブでの男の特権は何かと尋ねましたら、「誰に遠慮なくたるんだ靴下を引き上げることだ」と言うのですが‥‥‥。(特に、女性のいるところで靴下に手をやるのは大変な無作法ですと?!育ちの良くない小生、知りませんでした)
あと、真っ昼間からワインで乾杯。話のタネが、別荘やモーターボートでのマグロ釣り。課長クラスでこれか‥‥と、本当の「話にならない」話でした。
次の日、皆さんもご存知の化学薬品の会社のシステム・センターを見学しました。目的は、システム・センターのセキュリティでした。
門を入って建物に着くまでの道が、クネクネと不自然に曲がっています。後で聞いてわかったのですが、あちこちにカメラがあって、近づく車の搭乗者を観察しているのだそうです。なるほどと感心したのですが、自分たちも観察されていたのかと、あまりいい気はしませんでした。
玄関ホールに入ると、ビックリするほどの広さです。そこにたった一人の受付嬢がいました。余りの殺風景に驚いて、キョロキョロしていますと、両側の壁に不自然な小窓に気づきました。案内してもらった弁護士氏にそっと尋ねましたら、セキュリティが自動小銃を持って構えてるのだそうです。何とも物騒なところを尋ねたものでした。
続けてその日の夕刻、ある有名な放送会社に案内してもらいました。そこは入ると、受付は異常に狭苦しい部屋でした。聞くと多人数に押しかけられないための策で、やはり機関銃で武装したセキュリティが隠れているとのこと。
アメリカは、何とも物騒なところらしく、あちこち見せていただいた割には役立たずの出張でした。
付け足しに、もう一つ、セキュリティのお話。
前段とは全く別の出張で、フランスのとある有名な兵器会社の研究所を訪ねたことがあります。パリからそう遠くないところでしたが、何と、あたり一面の麦畑。数キロ四方、立木一本見当たりません。遥か彼方に目指す会社が見えていました。後で聞いたのですが、このような立地にしておけば、数キロ先からほふく前進でもしない限り、丸見え。麦が刈られてしまえば、はっても丸見え。下手な塀や堀より安全確実と。
最新のミサイルなど開発する会社の研究所が、まあ、合理的なような‥‥‥。
<遠い昔の思い出 21 シカゴ工場のクリスマス>
もう40数年も前、12月にかかっていたかもしれませんが、シカゴにあるテレビ工場に行きました。以前からよく知っている社長が
「あなたで今年最後です。来年の春まで日本からの出張者は誰もありません」
「シカゴの冬は、北海道以上の厳しい、それはそれは寂しい冬です。その分、本もたくさん読めますが‥‥」
としみじみ話された時、「そうか、こんなに明るく人付き合いのいい人でも極寒の中ではそうなのか‥‥‥」と、しんみりしてしまいました。
私たち日本側も出来るだけハイシーズンの出張は避けていましたが、それでもよほどの事でもない限り、真冬のシカゴに出張する気力は持ち合わせていません。道路の並木も公園の木々も、茶色に枯れて、落ち葉が風に追われるようにそこかしこで転がっていきます。従業員にも出退勤は必ず複数の車で、助けて会いながら移動する事を推奨しているとのことでした。万一、単独で故障しますと、命に関わるということで‥‥。
そんな話の後、「暗い話は終わりにして、今日はクリスマスの余興大会です。是非見てやってください」と集会場に案内されました。職場対抗の演芸会で、審査員もいて、商品が山のように積み上げられています。
国歌斉唱。当然、私たちも起立します。歌うのはアメリカ国歌。当然と言えば当然ですが。そのあと、従業員組合委員長の挨拶。すぐに各チームの出し物に移ります。今年はミュージカルから取った歌や寸劇コントとのことですが、英語がさっぱり。スペイン語訛りの英語が混じるのは、この地区にスペイン語圏からの移民が多いためとか。そのうちにあるチームが寸劇の中で、「ゲンベさんの赤ちゃんが風邪ひいた」を歌い出しました。すると観客席全員起立!座っているのは我々日本人数人だけ。
「そうか。この曲、元歌は“リパブリック賛歌”だったな」と途中で気が付きましたが、後の祭り。起立した人の谷間に座っているような、なんともキマリの悪い思いで、早く終われーっと心で念じていました。海外、よその国で会社経営するということは、こういう事か‥‥と、この時実感した次第でした。
この後、ステーキに案内されました。
日本人の経営で、肉もよくて日本人に好評と前宣伝に力が入っていました。赤々とかがり火が燃える入り口に、紳士が腰をかがめて迎えてくれました。
「えらい衰えたかんじやなー」と誰かが小声で言いました。
会社の先輩幹部で、退職してここにレストランを始められたとのことでした。ご苦労も多いのかも。今日はどこまでも話が暗い日だなとか‥‥‥。
注文したサイコロ・ステーキは柔らかくジューシーで最高でした。
☆ 京都の愛宕山にお詣りしてきました。雲海と名残の紅葉🍁、空也の滝と、見応えのある景色を堪能し ました🙆♀️
<遠い昔の思い出 、なんだ?この電車!>
今回は日本での失敗談です。
年末の忘年会シーズンで、虎ノ門・赤坂・銀座と絵に描いたような梯子酒でした。飲んだ後はいつもなら銀座で車を拾うことが多いのですが、まだ電車があるよ、と誰かが言ったので、殊勝にも電車に乗ることにしました。
新橋駅の階段をよろよろ登りますと、目の前に電車が止まっています。京浜東北線の青い線の入った電車です。ラッキー!と乗りましたが、運悪く?目の前の席が空いています。冬、酔った時の電車はよほど遠くまで乗るなら別ですが、たったママが安全です。つい先日、知人が酔って沼津まで連れて行かれて、その日の内に帰れなかったとボヤいていました。
当時、鶴見に家を借りていましたので、電車の時間が24〜5分。立つか座るか微妙なところです。その時は何も考えず、やれやれと座ってしまいました。
ハッと気がつくと、「次は横浜〜」とアナウンスしています。やっぱり寝過ごしたか‥‥と横浜で降りて、なんでもいいと、上りのホームに息を切らしながら上がりますと、上り電車が待っていてくれます。
見るとガラ空きです。立っているのも照れ臭く、ドアのすぐ横の席に腰掛けました。出発の前の案内がやたらと長いので、どうかしたか?と耳を澄ますと、どこそこ行きの電車には接続しませんとか何とか言っています。事故でもあったかと聞き流します。
まもなく電車は発車しました。鶴見は横浜から京浜東北線では、東神奈川・新子安・鶴見で、10分足らずの距離です。酔っているというのは危ないもので、電車が鶴見に止まっているのに、なぜか次の駅のような錯覚を起こして、ゆっくりしていました。そのうち、降りる駅はここや!気がつきましたが、降りるより一瞬早くドアが閉まりました。
次は川崎です。また、長いアナウンスをしています。
いつもなら川崎に着く前は乗り換えの案内はありますが、「いつも京浜東北線をご利用いただき‥‥‥。」なんてアナウンスはあまり聞いたことがありません。電車はすぐ川崎につきました。川崎でもういっぺん横浜行きに乗るか、川崎から歩いて帰るか‥‥‥。と思いながらとりあえず降りますと、ホームの案内アナウンスが、「この電車はどこへも参りません。お乗りにならないでください。この電車は車庫に入ります。」
何度も同じことを繰り返しています。そうこうする内に、一人酔っ払いがフラフラと降りてきました。
「今日の川崎駅からの電車は、全て終了しました。またの‥‥‥」
ホームに人影もなく大きな駅がガランとしています。ノロノロと階段を登って外に出ました。川崎駅から鶴見方面は男でも夜中に一人で歩くようなところではありませんが、お月さんが寒空から煌々と道を照らし、なんとなく歌いながら帰りたくなりました。
後日、この事を一緒に飲んでいた人に話しましたら、
「あんたの話、計算が合わないね。あの時刻の電車に乗れば終電にはならないよ。川崎〜横浜をニ往復してない?」
<遠い昔の思い出 19. 米の小型旅客機>
アメリカで、ある社を訪問のための移動のお話です。
訪問先は、ニューヨーク州のスケネクタディという舌を噛みそうなところにあります。ニューヨーク州は南北に長い州で、ニューヨーク市はその南の端にあります。余談ですが、ニューヨーク州の州都はオールバニー(現地ではオーバニーと聞こえましたが‥)というところだそうです。同じ州の中ですが、オーバニーというところまで飛行機で、そのあとはタクシーでした。
ニューヨークにはラガーディア空港という地方便専用の空港があります。そこから飛行機に乗るのですが、聴くとわづか10人乗りというのです。
当時、まだ現役だったY S 11という日本製の旅客機があり、これが60人くらいの席数で、ずいぶん小さいと思っていましたが‥‥。
ターミナルを出て徒歩で駐機場に向かいます。
なるほど小さな飛行機で、胴体の一部を開いて、乗降口にしていますが、その開いたドアが階段になっていてそこを登ります。
乗務員らしき人が機体の下に立っています。階段に足をかけると、その人は「うっ!」と声を出して胴体を担ぐように支えます。誰かが支えていないと、人の重みで階段が地面にぶつかるのでしょう。誰かが乗るたびにその人が飛行機を支えているのです。なんとも珍妙な風景ですが、気の毒でもありました。
他の飛行機が見上げるほど大きく、離陸待ちの行列に入ると子供が大人の列に一人前のように並んでいるのが、滑稽でした。副操縦士が何やら出発前の注意事項をアナウンスしていますが、全く理解できません。機が離陸の滑走を始めますと滑走路の半分も行かないうちにフワリと浮き上がりました。エンジンの音がうるさくて、隣の人とも話をする気になりません。黙って外の景色を見つめているばかりでした。
小一時間も飛んだでしょうか。機が着陸しました。ターミナルの近くに駐機しました。エンジンが止まると、頭の中がシーンとします。
そこでパイロットが一声「オーバニー」
帰りも同じ飛行機でした。
何人客が乗ったか知りませんが、一番前の席に座りました。操縦席と客室との間には遮るものは何もありません。乗り物好きの私には願ってもない席です。普通の飛行機では、ハイジャック事件以降、厳しく操縦席と客室が隔てられていますのに、全く珍しい眺めでした。
機は軽々と飛び上がり、上天気の空を一路ニューヨークを目指します。
遥か遠くにマンハッタンのビル群が見えてきました。ところが、ニューヨークの上にもくもくと入道雲が立ち上がっています。パイロットと副操縦士が雲を指差し、何やらしきりに話しています。どうも入道雲を迂回して空港に入るか、真っ直ぐ空港に入るか議論しているようです。こんな 小さな飛行機に雷が落ちたらどうなるのか?と不安で、相談している二人の肩を叩いて雲を避けろと言いたくなります。しかし、機は真っ直ぐ雲の下に潜り込みました。急に視界が暗くなり、何も見えません。それもほんの一瞬で、すぐ滑走が見えました。無事着陸。雨が今にも降り出しそうで、急いでターミナルに入りました。
乗る時に飛行機を担いでいた人が降りる時にも居たかどうか、見るのを忘れました。
オーバニーで訪問した会社のお話は次回に。お読みいただきありがとうございました。
< 遠い昔の思い出 18 スペインへの旅>
さて、今日の暇潰しの昔の思い出は、スペインです。
昔、といっても十数年前ですが、所属の合唱団で旅行に行く話が出てきました。合唱団では二・三年に一度、任意参加で海外に行っていました。私は仕事をしていたので、それまでは合唱団の海外旅行には参加していませんでした。
以前から行きたいと思っていたスペイン・ポルトガルというので、初めて参加の申し込みをしました。が、聞いてびっくり、巡礼のコースだというのです。これはもうあっちこっち行き尽くして、南極・アフリカの前に行くような感じのコースです。巡礼というのは、ご存知かと思いますが、フランスからピレネー山脈を超えてバスクに入り、イベリア半島の北側を西へ西へと進み、サンチアゴ・デ・コンポステーラというキリスト教の聖地までおよそ800キロもの道を歩いて行くのです。
巡礼でもなんでもない私たちは流石に歩くということはなく、サン・セバスティアンという海辺の有名な避暑地の近くまでパリで飛行機を乗り継ぎ飛んで行き、そこから貸切のバス旅行となります。初めての私は、マドリードとかバルセローナとか有名な都市など見てみたいのですが、他のメンバーは、スペイン二度目とか三度目とか言う人ばかりで、今回のコースが上級コースでスペイン旅行の仕上げになると好評でした。
サン・セバスティアンはこぢんまりとした入江とそれに抱かれている島(サンタクララ島)ともに本当に美しく、ほとんど海外で観光旅行をしたことのない私には、身も心も洗われるようでした。
この海辺の砂浜をぼんやり見ている内に、皆とはぐれてしまいました。仕方なく、一人で漁港の方に歩いて行き、狭い路地、古い教会、開店早々のバル。流石にバルに一人で入る勇気はなく、のぞいただけですが、スペインの田舎街の雰囲気を十分、楽しんでいました。歩き疲れて、急に皆の様子が気になって、バスを降りたあたりに戻りますと、運良く、またバスに乗り込むところで、迷惑をかけないで済みました。聞けば、この海岸で有名な喫茶店に案内してもらっていたとか。負け惜しみで、旧市街を散策して、良かったと思いました。
しかしながら、それから西に向かう巡礼の道は、こちらがそう思ってみるからか、陰鬱な日本海の色と同じ色の海を見ながらのバス旅行で、陽気で乾いたスペインと言う先入観と全く違ったウエットなものでした。海辺のレストランの魚料理、有名なシタビラメのムニエル、時間がかかりただ生臭く、西洋人が魚料理を食べないのが頷ける気がしました。宿も古い僧院を改装した古色蒼然とした宿で、それまで普通のホテルばかり泊まっていた者には、嬉しいものではありませんでした。
スペインの西北部にある、サンチアゴ・デ・コンポステーラ。大聖堂は壮大な建物で、中に入るとたくさんの人が集まっていました。その頭の上を、名物の巨大振り香炉を高い天井から吊り下げ、煙を盛大に振り撒きながら振り子のように揺らす有名な行事(ボタフメイロ)が始まります。これは、巡礼の道を歩いてきた人の匂いを消すのが目的で始まったことと言われています。100メートルもある巨大な聖堂を消臭すると言うのですから、大掛かりです。人の背丈ほどもある香炉は僧侶が五、六人もかかって揺らし始め、長いロープを引っ張ったり緩めたりして揺れ幅を大きくします(YouTubeにその動画があります)。
なるほど、スペインの旅の上級編は、一人になって自分の好きなところをじっくり見ていくと、趣のある奥の深い旅でした。ツアーコンダクターからは自分勝手な動きをする問題児と見られていたようですが、‥‥‥。
< 遠い昔の思い出 17. ペルーの宿(下)>
エライホテルに泊まった(泊まらされた)ものです。
翌日、何の用だったか忘れましたが、フロントに行きました。
日本人出向者から、多分このホテルでは、フロントでも英語はだめでしょうと、言われていましたので、念のためカタコトのスペイン語で英語は喋れるか?と聞きました。
すると「OK、one,two,three. That’s all. 」と身振り手振りの答えが帰ってきました。やっぱりダメかと、ガッカリして朝食に行きました。
貧しいコールドばかりの朝食をトレーにとって、席に着きました。と、離れた席から、みるも酷い服装のアジア人がトレーを返しがてら私のテーブルに来まして、「日本の方ですか」と聞きました。「そうです」と答えましたら、「何ヶ月ぶりかで日本語を喋りました。今日、久しぶりに人里にきました」と。なんでもアンデスの山奥で金だか銅だかの鉱山を探している人で、日本では結構大きな鉱山会社に勤めているとか。
地の果ての山奥にも日本人が働いている‥‥とその人が去った後しばらく自分は何にも知らんなあ、と恥ずかしいような気分でした。その人とはそれっきり食堂でも会いませんでした。またアンデスの山奥に帰って行かれたのでしょうか。
英語(カタコトですが)が通じないとなると、何とかスペイン語を勉強しなくては不便です。こういうホテルにはよくあるのですが、フロアーを見張ってるアルバイトの少年がいます。私もチップを渡して、スペイン語を教えてくれろと言いましたら、何とこの少年、お客さんから教えてもらっていて、カタコトの英語を話します。以後、毎日夜と朝、少しずつスペイン語を教えてもらいました。この少年、驚くことに、自分の姉さんは英語が喋れて、友達を探しているから紹介しよう、というのです。客引きをしてるのです。こちらが物欲しそうに見えたのか、こちらの返事も待たずに、次の土曜日の夜来てくれるというのです。
その日、会社に行きましたら、とんでもないホテルで申し訳ない、今日、別のいいホテルが取れたので、夕方引越して下さいと。
夕方、荷物をまとめるのに、難儀をしました。下着を洗濯していたのですが、全く乾いていません。ビショビショをビニール袋に詰め込んで、引越ししました。
この時期、ペルーでは雨季とのことで、一日中霧で、洗濯物は全く乾かないとのこと。皆、乾燥機やアイロンで乾かすそうです。まだしずくの出そうなのを日本人出向者の奥さんに世話になりました。そういえば、こちらの返事も聞かずに姉さんを紹介するといっていた少年。幸か不幸か、それっきりになりました。
引っ越して行ったホテルは、堂々たる、いかにも由緒のある構えのホテルで、部屋も前のホテルと比較にならない立派な構えでした。フロントでも何の心配もなく英語で伝わり、返ってこちらのプアな英語が恥ずかしいようでした。もちろん、食堂でもこちらの欲しいものがあり、美味しくいただきました。
休日になり、のんびりホテルの中、外を見てまわりました。中庭の向こうにゴルフコースが見えます。空港のそばにあったむしろ小屋とはまさに天と地の違いです。コースに出ている人がまばらです。当時早朝から遠路コースに駆けつけていた日本とはこれも天と地ほどの違いです。何でもペルー全体で一桁のファミリーが富を抑えていて、貧富の差が極端なのだとのことでした。
出向者が今日はどこかへ観光案内をしてくれることになっていまして、その時間待ちで、ウロウロしていました。そうこうするうちにどこからかバンドの大音響が響いてきました。音のする方に行ってみますと、大広間で、子供達が走り回っています。隅っこに10人ほどのが楽員がいて、勝手に調子を調べています。聞きますと、多分子供のお誕生会ではないかな、とのこと。
一流のホテルで、楽団を呼んでするお誕生会。私のような豊かでない田舎者には、まるで映画の中の世界の様で、前日に見た山の斜面にへばりついている貧民街とも引き比べ、しばらくぼんやりしていました。
<遠い昔の思い出 16. ペルーの宿 (上)>
40年以上も前。初めての海外出張。緊張してました。
それだけに、色々なことを昨日のことのように思い出します。
何の予備知識もなく、旅行社の用意してくれたチケットで伊丹〜成田から飛行機に乗りました。ブラジル・サンパウロに行く飛行機でした。沖縄の人たちの中に紛れて座っていました。どうも先祖が沖縄からブラジルに移民した人々の子孫で、団体で沖縄を訪れた帰りと。顔は日本人ですが、日本語は片言。えらい団体の中に紛れ込んだものでした。
途中、ロスアンゼルスでワンストップありまして、飛行機がペルーのリマ空港に着いたのが、夜中の11時過ぎでした。時差の関係がどうしても飲み込めず、まして夜中に到着していまして、今が何日か?考えるのも嫌になっていました。
日本出発は夕方でしたが、ロスに着いた時は日本時間で翌日の早暁、現地出発日と同日の昼過ぎ。2時間の待ち。そのため、まず米国に入国してどこにもいかずに出国して、出発ロビーに行くという不思議なことを経験しました。待っている間に、物売りなども頻繁にきます。彼ら(彼女ら)は、米国を出国してこのロビーに来ているのか?わけがわかりません。そのうち出発、10時間?のフライト。リマは夜中の11時半。通関を済ませて空港の外に出たのは、現地時間の午前1時前。
今なら冷静に考えられますが、初めての海外出張でヒョイヒョイ日付が変わって、その上時差がありますと疲れと相まって混乱の極み。真夜中にも関わらず、出向している日本人が迎えに来てくれていました。そうでなければ、事情も言葉もわからず、真夜中に何が出来ると?
車が動き出した途端、「到着早々ですみませんが、ちょっとややこしいことになってまして‥‥‥」と迎えの人。「ここは黙ってパスポートを出してください」窓が開くとそこへ自動小銃。生まれて初めて外国に来た途端、自動小銃!懐中電灯に照らされて、パスポート確認ですぐOKとはなりましたが‥‥‥。
「実は、昨日から全国的に荒れてまして、ゼネストになりそうなんです。大丈夫だと思っていたのですが、まずいことになりました」
出向者の奥さん方もご主人が会社に籠城になりそうだと、おにぎり作りなどの大忙しだそうです。
「それで、ホテルも日本人の住んでる近くに変更しました。ちょっと汚いですが‥‥‥」
と連れて行かれたホテルが、いかにも古ぼけた小さなホテル。日本ではとても見られないレベルで、やれやれ。
チェックインは迎えの人が済ませてくれましたので、とりあえず部屋へ。
リマは南緯12度。緯度的には熱帯ですが、現地は早春といった気候で、夜は(実は昼間も)霧に包まれ、冷え込みました。南極から出てくる寒流が原因ということでした。
窓の外は漆黒の夜空。遠くに「TOYOTA」と「AJINOMOTO」の、何の飾りもない文字だけのネオンサイン。他には何の灯りも見えず、何とも心細い所に来たものです。とりあえずシャワーをとシャワールームに入ってびっくり。大きな空気抜きがあって、外気直結、真っ暗な空が見えています。シャワーはチョロチョロ出るのですが、いつまで経っても暖かくなりません。諦めてベッドに飛び込みました。
今から何が始まるかわかったものではない、と覚悟を決めました。
<遠い昔の思い出 15. 誰かが種を捨てたんでしょう>
インドネシアでは驚くことがいくつもありました。
その1
工場見学をするため、真昼の屋外に出ました。太陽の強烈な光でクラクラしそうです。ここの会社の何周年かの行事として、日本から出張してきた役員が記念の植樹をしました。
ところが後で従業員の評判がすこぶる悪いのだそうです。現地で縁起でもない木でも選んだのか?と思ったのですが、そんなことではなく、せっかくみんなで汗水垂らしてジャングルを芝生に変えた。そこへわざわざ木を植えるとはどういうことか!何もしなければ木は生えてくるのだ、ということだったそうです。
少し歩きますとコンクリートの歩道の脇にヒョロとして、てっぺんまで手が届きそうな木が植えてあります。見ると何とも唐突に大きな青いウリの様な物が2つくっついています。見るとどうもパパイヤの様です。幹から突然実がぶら下がっているのです。
「これはもしかしてパパイヤですか」
と案内の人に聞きますと
「そうです」
「従業員福祉の一環ですか?」
「いや、誰かが種を捨てたんでしょう。引き抜かせますわ」
その2
会議室で会社の説明を受けていました。午後のことです。突然パーンと上の方で鋭い音がしました。
「こりゃ来ますね」
まもなくザアザアとまるで滝の中に入った様な音になり、話どころではなくなりました。
「しばらく休憩しましょう」
と、説明の人は部屋を出て行ってしまいました。一緒に聴いていた人も近くによらないとお互いの声がよく聞こえません。
「トタンの屋根ですか?」
「そうです。これが一般的ですね、ここでは。この方がスコールの後エアコンがよく効くのです。一般の家も夜涼しいのでトタン屋根ですね」
その3
ビロウな話で恐縮ですが‥‥‥。
南の国では珍しいことではありませんが、初心者はよく腹痛に襲われます。ウエルカム・シャワーとかいうそうです。御多聞に洩れずやられました。
会議の途中、失礼してトイレを借りました。会議室が社長の専用の建物の一画でした。受付に格別綺麗な女性が3人暇を持て余した風情で並んでいます。急を要するものですから、一番近いトイレは?と尋ねました。すぐそこと場所を教えられ、飛び込みました。
何とも広々とした部屋で、絨毯敷の向こうにタイル部分があります。その真ん中に、和式のものから前の隠しをとった様なものがあります。郷に入っては郷に従え、とそこで用を足しました。落ち着いてみますと、紙はどこにも見当たりません。部屋の隅に四角な水溜めらしきものがあり、金色の柄杓が伏せてあります。
「あれかあ。ものの本にある‥‥‥。」
悪戦苦闘の末、なんとか始末を付けて外に出ると、3人並んだ受付嬢が、突っ伏して肩を震わせています。
コチラも通りすがりに「くそ」丁寧に頭を下げて、
「テレマカシ」
< 遠い昔の思い出 14 朝の散歩でやられました >
ふたたびインドネシアです。
ジャカルタの朝は太陽が出ると共に強烈な暑さが襲ってきます。それでお日さんが出る前にと、ホテルの周辺を散歩に出かけた時のことです。
朝早くから沢山の車、バスを待つ人々。新興国らしく、活気に溢れています。そんなメインストリートで、バス停の人が何やら大声でこちらを指差しています
その時、すぐそばに男が二人。
「 ! 」
気になってお尻のポケットに手をやったら、財布がありません。二人のうちの一人は横断歩道橋を駆け上がっていて、もう一人は反対の脇道を走っています。おそらくバスを待っている人の中に、スリを知っている人がいて注意してくれていたのでしょう。
「やられたかあ」
と思いましたが、追いかける気も起こりません。
周りを見回すと、向こうの方に警官がいます。側に行って話をしようとしましたが、
「No understand English !」
「英語、しゃべっとるやないかい」
と思いましたが、らちがあきません。仕方なくホテルに帰って家にカードの紛失届けを出すよう電話しました。
出張で海外に出る時は、現金は財布、スーツケース、書類鞄に分けて持つようにしていましたので、早速にお金の心配はないのですが、財布に入れていた免許証の事を思うと面倒やなあと、落ち込んでいました。その頃は単身で東京で仕事をしていましたので、大阪での用事がやりにくかったのです。
その日、午前の仕事を済ませて、シンガポールへ移動しました。ホテルのチェックインに行きますと小さな札が立ててあり、私宛に何かが届いている、とあります。ビックリしました。朝すられたカードの臨時カードが先回りして待ってました。これには、感心しました。
日本に戻って、仕事の用事で行った所が皇居前だったのですが、そばに派出所がありましたので運転免許証の盗難届けに立ち寄りました。
「どこで、いつのことですか?」
「先週、金曜日。ジャカルタです」
「海外ですか」
と、お巡りさん、急に熱意がなくなった態度に変わりました。
「それで、被害はどんなでしたか?」
「えー。運転免許証です」
「免許証。で、現金は?」
「1万円ちょっとです」
「海外に行くのに1万円ちょっとということはないでしょう」
と信用してない感じ。
「いや、いつも財布の中は現地通貨中心で、円はそれほど持ってないので‥‥。」
まだ信じられない風で、
「財布、どこに入れてました?」
「お尻のポケットです」
「右ですか左ですか」
また細かい事きくなあ、と思いながら
「右ですね」
「今度から左にしてくださいね。左のポケットはボタンついてるでしょう。スリは左のポケットは仕事がしにくいんだそうです」
そういうもんかあ。そう言われてみれば、左のポケットにはボタンついてるなあ。防犯の心得をご指導いただきました。盗難届けをどうしたか、記憶がありません。
☆ 室堂から一の越、雄山、大汝山、富士の折立から、大走りを下りました。
日中は、雲が上がってきましたが、富山湾の雲海に沈む夕陽がとても綺麗でした😊
<遠い昔の思い出 13. インド ニューデリー空港>
インドには二回しか行ってないのですが、なんとも印象深い国です。
初めてのインド行きはイギリスからの帰りでした。未知の国で、少し緊張して行った記憶があります。夜行便でした。朝のニューデリー空港は、まさに映画の中のシーンそっくり。人人‥‥人。万単位と思われる人が何の用か知りませんが、空港の待合室、出入口、至る所にぎっしり群がっています。
こりゃ迎えの人と出会えるかなあ、と不安になりました。ところが、迎えの方は慣れたもので、この混雑の中、すぐに私を見つけてくれました。今思うのですが、多分、背広を着ていることを目当てにしていたのでしょう。あの雑踏の中でも背広は極々少数派でしたから。
雑踏の中で名刺交換して挨拶しました。インドに出張で来るのは珍しいとかで、えらい歓迎ぶりでした。目的の会社に行って、社長と挨拶しようとしましたが名刺入れが見当たりません。車の中も探してもらいましたが、だめでした。
たまたま、社長とは同期で、よく知った仲でしたので名刺がないのは問題ないのですが、
「すぐ作らせましょう」
と、空港で交換したものを見本に作ってくれることになりました。その日の夕方には出来てきたので、その速さにびっくりしました。パソコンの利用ではインドは、当時日本を遥かに凌駕していました。名刺用の厚紙さえ手に入れば名刺の作成など、いともお安いご用意だったのです。
ご存知かと思いますが、インドはIT 人材の宝庫で、日本が大型コンピュータを使って、大量の定型的データ処理をしている時代に、今日のようなパソコンによる機動的で自在な情報処理を始めていました。古い計算機の使い手の私には、大きな衝撃と勉強になりました。
それにしても、名刺入れをなくしたのは誠に残念なことでした。というのも、転勤に際して、前職場の女子社員一同から餞別に貰ったものだったからです。帰途、シンガポールの空港でも免税店を探し回りましたが、同じものは見つかりませんでした。帰国して代わりのものを買いましたが、しっくり来ません。
ところが、超弩級の驚きを経験する事になりました。帰国して半月も経った歳の暮れ近くでした。汚れてヨレヨレの小さな封書が机の上に置いてあります。見るとインドの空港オフィスからでした。中を開けると空港の職員だという人からで、空港で落とし物として入手したが、持ち主がハッキリしていたので、名刺の会社宛に送ると手書きの綺麗なペン字で書かれていました。
本当にびっくりしました。あの想像を絶する混雑の空港でなくした名刺入れが、送られてきたのです。しばらく、仕事が手につきませんでした。家の電話が書いてありましたので、日曜なら先方も在宅かと思い、日曜を待ってお礼の電話をしました。奥さんらしい人が出ました。大声で「日本からよ」と呼んでいます。待つほどもなくご本人が出ました。下手な英語で、
「信じられないことで、最大のクリスマスプレゼントだ」
と伝えました。向こうは、
「無事持ち主に返ってよかった。インドがそういうことの起こる国だと分かって貰えば嬉しい」
とのことでした。
半年後になりましたが、またインドを訪れる機会があり、お礼を持って行きました。わたしにとって、インドは懐かしい、不思議な国になりました。
マレーシアでご馳走になったことがあります。
ある人が、私がクアラルンプールに来ていると知って、わざわざホテルに電話をくれました。
「今夕はなんでもいいから、汚い服装で来てくれ」
というのです。頭を捻ってみても、意味がわかりません。それで、ゴルフをするつもりでしたから、ゴルフウエアーで迎えを待っていました。迎えに来てくれたC君が、
「今日は汚れますよ。カニですから」
と。両手をチョキチョキさせています。
「チリ(唐辛子)がつくと、これがとれないんですよ」
ようやく、汚い服装の意味がわかりました。
涼風も吹き始めた夕刻、カニ屋さんに案内されました。
「庭に出ましょう」
ということで、外のテーブルにつきます。空の色が濃い群青になって、涼風が庭を通り抜けます。街のど真中なのに、喧騒が遠く聞こえるように思いました。熱帯の夕暮れのなんともロマンチックな時刻です。
カニが来ました。上海カニです。日本のカニ料理のような優雅さは微塵もありません。大皿に山盛りです。大量の唐辛子で真っ赤に茹でてあります。これを、木のハンマーで叩き割りながらいただきます。当然、真っ赤な唐辛子が飛び散ります。
無粋と言えば無粋ですが、美味いことには変わりありません。日本のようにカニを食べると無口になる、などということもありません。大いにしゃべり、かつ、大いに飲み、大いに食べます。
大皿の山が無くなったところでホストが
「どうですか、次の皿を頼みましょうか?」
「ありがとうございます。もう十分いただきました。おいしかったです」
と、満腹でお開きになりました。幸い、脅かされていたほど服も汚れずに終わりました。
向こうの人は、二次会をやる習慣がないようで、我々には何か落ち着きません。それで、ホストと分かれて、C君の行きつけのカラオケに行くことになりました。
10人も入れるか?と言った小さなカラオケ屋ですが、とんでもなく大きなスピーカーを置いています。先客が一組いまして、日本の歌謡曲を続けていました。我々の席に綺麗な中国系の女性がつきました。
C君が「あっ、Sさんですね。」と言います。
C君は実は、マレーシアの前にアメリカに何年か行っていまして、英語はペラペラです。私とC君の間は日本語、女性との間は英語という国際色豊かなことになりました。
そうこうするうちに、先客が上手い英語で歌い始めました。
振り返ると、なるほどS君。私と同期入社。外国語大学を出ていて、それこそ英語の達人です。向こうもこちらに気づき、手を挙げています。この人は、なかなかの大人物で、後、副社長にまで上り詰めましたが、マレーシアでも大きな仕事をしています。
今では「世界一の盆踊り」と言われるクアラルンプールの盆踊りの実行委員でした。当時すでにマレーシア中からバスで人が集まるとのこと。近年では、日本人会が中心になって、3万人とか4万人もの人が異国の地での盆踊りで、日本を偲ぶのだそうです。日本人だけでなく、現地の若い人も集まります。今年は宗教上の問題で、揉めたそうですが‥‥‥。
集まっている人が実際どんな気持ちかわかりませんが、私には、熱帯の盆踊りが、なぜか物悲しく思えました。異国で聞く演歌。これも、何やら、やりきれない寂しさを感じることがあります。これがホームシックでしょうか?
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< 遠い昔の思い出 11 ウエールズ 旧セバーン・ブリッジ >
日本では一口にイギリス・英国といっていますが、現地に行くと少し様子が違います。UKという言い方があり、グレートブリテンと北アイルランドの連合国のことらしいのです。また別に、オーストラリアやカナダなどを含めた英連邦などもあって、複雑です。
グレートブリテンは、イングランド、ウエールズ、スコットランドで構成されているそうです。ロンドンなどはイングランドですが、私の出張の用事はほとんどがウエールズでした。イギリスが西向きに口を開けているようなところがブリストル海峡。これが細くなってセバーン川になって内陸に伸びています。ロンドンからM4 と言う自動車道をひたすら西に向かいますと、この川・海峡?にぶつかります。ここを越えるとウエールズということになります。
道端の看板が突然どう読むのか見当もつかないウエールズ語に変わります。これはウエールズ政府がウエールズ語を大切にしているためだそうですが、やたらと二重子音が多いのです。ただ、日常は英語だそうです。
この辺の人は川の手前に住んでいるか向こうかで、どうも大違いでのようで、イングランド側の人はウエールズ側の人を何となく見下しています。ウエールズに入ると、人々の背も低く、体型もややずんぐりした人が多くなります。、大根足〜かぶら足もかなりの割合でいます。
この川を渡る橋が昔は「セバーン・ブリッジ」と言いまして交通の難所でした。今は、もう一本新しい橋ができてこちらがセバーン・ブリッジ、古い方は「プリンス・オブ・ウエールズ・ブリッジ」と変わっているようです。その旧橋は、真ん中あたりが吊り橋になっていまして、風が強いところらしく、しょっちゅう通行止めになります。泊まっていたホテルのカウンターの壁に、「セバーン・ブリッジ情報」が表示してあり、「風」とか「工事」とか出ていました。
ある時、車でロンドン・ヒースロー空港まで送ってもらう途中で、「工事」の大渋滞にはまりました。
運転しているM君が
「どうも様子がおかしいですね。なんぼ工事でもこんなに完全に止まることはないんですど‥‥」
と首を傾げています。そのうち、路側帯を走って追い越していく不心得者まで出てきました。これに、高速バスが何台か連携して道を塞いで対抗しています。見ものでした。
そのうちM君も路側帯に入ります。
「あかんで、バスが塞いでるで」
と言いますと、
「スミマセン、おしっこしたくなてしもたんです」
「そら、しゃーないなあ」
とは言ったものの、そこは広大な麦畑の真ん中で、見渡す限り隠れるところがありません。M君は見た目、力の限り走って、遠くで用を足してきました。帰ってくるときに、近所の車が皆警笛や口笛を鳴らして、「イェーイ」などと声を掛けています。皆、暇ですることもなかったのでしょう。
そのあと、急に動き出し、
「けしからんですね。工事の連中が昼食に行ってたんでしょう」
空港にはギリギリ間に合うか、という時間に着きましました。係員が「走れ」と言います。当時JALの乗り場は一番端っこ。バッグを引っ張っていて、お土産も買えませんでした。機内に入ると、すでに着席している乗客から、
「こいつか!飛行機を止めているやつは!」
という目線が痛いほどでした。
< 遠い昔の思い出 10 ジャカルタの暴動 >
前回の続きです。
二日目の会議でホテル近くの会場のビルに行ったのですが、前日と何やら雰囲気が違います。いかにも戦いを煽るような雰囲気の音楽が流れていて、落ち着きません。それでも午前中3時間ほどの会合を終えました。打ち上げに皆で昼食をホテルで食べようと向こうから提案がありました。しかし、外の雰囲気がおかしいので、今日はこれで終わりにしましょうとありがたく断り、ホテルに戻りました。
実は、ジャカルタで騒動に遭うのは、これが2回目で、街の様子が前回とよく似ていました。歩いている人も少なめで、街が息を詰めて身構えているように見えます。現地語が全くわからない身では、ニュースが聞けず、見えている様子で判断するしかないのです。
「街の様子がおかしいので、すぐ空港に行きます。昼食は空港で」
と皆に告げます。
しかし、Mさんがなかなか出てきません。イライラして待っていると、のんびりと
「家に電話してまして‥‥。飛行機出るまでまだ4時間ありますよね」
と言っています。
「なんでもいいから急いで下さい」
とタクシーを急かせて出発しようとします。
「とりあえず空港までいきます。何が起こるかわかりませんから」
Mさんも雰囲気がおかしいのはわかっているのでしょう。
「デモでしょう?」
「この国のデモはしょっ中暴徒化して略奪騒ぎになりますから、呑気なことを言ってる場合でないでしょう」
「ちょっと買いたいものがあるんですが。すぐそこです」
ととぼけたことを言っています。
この人は英語の達人で、早口で英語をまくしたて、どこでもいけると自負している人です。しかし、この国で、英語を話せる人は日本より少ないということを忘れています。
「買い物ってなんですか?」
「ハードロックカフェのクマのぬいぐるみです。インドネシアのものはレアもので‥‥‥」
奥さんに絶対買ってこいと言われてるとか。周りの状況も見ず、何がハードロック・カフェだ?と思いましたが、黙っていました。
その間にも状況は刻々と悪くなっていきます。タクシーの運転手は、ラジオを聴いています。ハイウエーが封鎖されたので、空港にどうやって行くか、困ってると言っています。ようやくM さんともう一人が帰ってきました。大事そうにクマちゃんの袋を抱えています。
待たせてごめんもなく、
「いやー、あの店員英語が通じないんだから」
と時間のかかった言い訳をしています。
私は、地図を見ながら運転手に中華街を抜けて行こうと提案しました。こういう時に、中華街には案外暴徒が入りにくいものです。行ってみると予想通り、中華街はまだ平静を保っていました。1時間ほどで無事、スカルノ・ハッタ空港につきました。空港は軍が守っいるから大体安全だと、以前に来た時に教えてもらっていました。
飛行機は時間通りに飛び立ちました。機がまだ上昇中だというのに、立ち上がって指さして何か言っている乗客がいます。釣られて、自分も中腰で外を見ます。
ジャカルタの街に何本も黒煙が立ち上っています。焼き討ち・略奪が始まったのでしょう、間一髪で無事脱出、帰国の途につきました。以前、ジャカルタで暴動に遭って、ホテルに缶詰めになった経験が役立ちました。
帰国後、びっくりしました。新聞の一面にデカデカとジャカルタの暴動、焼き討ちの記事が載っていました。会社では私たちが巻き込まれたのではないかと心配していたと聞かされました。
私の部下は、
「多分逃げれてるでー。@*¥=“?%#」
と言ってたそうですが‥‥‥。
「@*¥=“?%#」のところは失礼な奴で、「世界中遊び歩いてるもんなぁ」だったと。
<遠い昔の思い出 9. 高級飲み屋の停電>
続けてインドネシアです。
これは、別のジャカルタ出張の話です。N社Mさん、F 社Kさん、K センターのS さんと私の四人ずれ。プロジェクトの責任者でしたので、私が団長ということでした。今は名前が変わっていますが、当時は「ホテル日航ジャカルタ」に泊まっていました。
初日の会合が終わり、夕食の後、Mさんが、
「インドネシアの会社に出向している同僚から飲み屋を紹介されているので、どうですか?場所も名前もわかってるし」
と呼びかけがあり、皆、喜んで「行こう行こう」とタクシーで出かけました。
有名な飲み屋街で、小綺麗な店でした。ちょっと気になったのは、店の前の暗闇に、人がウロウロしていることでした。
店内に入り、Mさんが紹介してくれた人の名前を告げますと、女将が愛想良く個室に案内してくれました。ずらりと女性陣が入ってきます。インドネシアでは、綺麗な女性はずば抜けて綺麗なのです。
皆が席に着いて、さあ乾杯しようという時になって、突然停電です。真っ暗。これは敵わんなあ‥‥‥と思っていると、女性達は慌てもせず、椅子の下から蝋燭を出して火をつけ、テーブルに乗せます。当時、ジャカルタでは停電はまったく珍しくもないことでした。一同、これはこれで情緒があるなあ、などと言いながらローソクの火を見ています。女性たちが、特別な別嬪に見えます。ロマンチックな乾杯でした。
しかし、それほど広くもない部屋で、エヤコンの止まったところへローソクをつけたわけで、まもなくモーレツな暑さになりました。落ち着きません。私は嫌な胸騒ぎを覚えて、もう一人の年寄り(今から思うと若かった)S さんを誘って、先にホテルに帰ることにしました。
店にいたのは15分ほど。乾杯だけで、「えっ?」というほどのお金をはらって、タクシーに乗りました。ま、なんと涼しいこと。
飲み足りないものですからホテルのバーに行き、バンドの演奏を聴いていました。次から次へと日本の歌謡曲をやっていました。しばらく待っていましたが、M さん、K さんが帰ってきません。心配になりましたが、連絡の方法もありません。
「まだ、飲んでるのかしら」
「Mさん、ああ見えて堅物やから、変なことにはならんと思うけどなあ」
などと言ってるうちに二人が帰ってきました。
「ほったらかして帰るから‥‥‥」
「どうしたんですか」
「いやー、停電はすぐ治ったんですが、エヤコンが動かずで」
「それは‥‥‥」
「それで私たちも、もう帰ろうと。あの後、間もなく店出たんですよ」
「それにしても遅かったですね」
「いや外に出たら、ポリさんに捕まって」
「それで?」
「英語は通じないし、向こうは怪しいと思い込んでるし、もうちょっとで警察に連れて行かれかかって」
「お得意の英語、まくしし立てたんでしょう。連行されんでよかった」
「途中で英語がわかるポリさんが来て、ようやく」
「なんか、治安上の心配とかデモが暴徒化するとか言ってて」
「まあ、無事でよかった」とその日は終わったのです。
翌日、ひどいことになりました。
☺「次回に続きます」☺
― 遠い昔の思い出 8 ―
[インドネシアの馬刺し]
私と関わりのあった人で、海外の出向先で風土病をもらったり事故に巻き込まれて、若くして亡くなった方が何人かいます。現地出向の人々は仕事だけでなく、生活のあらゆる面でも国内からは想像できないご苦労をされていました。
短期出張者の私でさすら、インドネシアではいろいろ危ない目に遭っています。
何度目の出張か記憶にありませんが、インドネシアに行った時、現地出向者に誘われて食事に行きました。現地では有名な朝鮮料理のお店だそうで、構えもなかなか立派でした。そこの名物料理が「馬刺し」だというのです。
昔、東南アジアではよほど用心をしていましても、食べ物で失敗します。食べ物だけでなく、水も危ないので用心だけでは避けられません。食器を洗う水すら危ないのです。当時、現地では食事の前にナイフやフォークを紙でガシャガシャと拭いていました。新型コロナと同じで、バイ菌に免疫ができないとどうにもならないのです。私も最初の時はひどい目に遭い、最初の週は仕事にならないことになった経験があります。二回目以降は、バイ菌にやられたあ、というようなことは、この朝鮮料理屋だけです。出張者としては流石に馬刺しには手を出さず、焼肉だけ食べていたのですが、翌日、どうもお腹の具合が平常ではありません。連れて行ってくれた人も何か心当たりがあるようで、
「お腹、ダメですか?」
「どうも怪しいです」
「では、これを飲んでおいてください」
と、抗生物質のカプセルをくれました。これが見たこともないような大きなカプセルで、500mgと書いてあります。このお陰で、なんとか酷くならずに日本に帰ってきました。
もう年の暮れ近い時期でしたから、忘年会や二次会・三次会と守口市界隈を派手に飲み歩いていました。ジャカルタで一緒に朝鮮料理屋へ行ったもう一人のひとYさんが、日本に出張で帰ってきまして、私の職場にも挨拶によってくれました。仕事のつながりは無かったのですが、朝鮮料理のよしみで寄ってくれたのです。
その時は様子に変わったところは見えなかったのですが、二、三日経った頃人事の人が訪ねてきました。
「何事?」
「あなたは、最近海外出張されてますね」
「インドネシアに行ってましたが‥‥‥。」
「そこで、朝鮮料理屋に行ってますね」
「えらい詳しく聞きますね。それがどうかしましたか」
「いや、Yさんが入院されましてね。どうも伝染病らしいのですよ」
「この間、私のところに挨拶に来てくれましたけど」
「そのすぐ後、歩けなくなって、入院です」
「へー。ひどいんですか」
「完全に面会謝絶です。ところであなたは健康大丈夫ですか?」
「何もないですが‥‥‥」
「気を付けて下さい。ドクターは多分赤痢だと言っていますから」
人事の人は、去り際に、疑り深そうな目で
「本当に大丈夫でしょうね」
と念を押してから帰って行きました。万一私が発病でもしたら、忘年会シーズンに守口市内の何軒かのお店が営業停止になるところでした。
その後、一月ほど経って、また人事の担当者が雑談風に来まして、
「Y さん、ちょっと危ない状態で、今日、家族を呼び寄せました」
というのです。
私はビックリして
「まだ退院できてなかったんですか?」
と聞きますと
「ただの赤痢ではなかったようで、効く薬が無いのです」
とのこと。
「家族の人、大変ですね。この寒い最中に熱帯からくるの‥‥‥」
幸い、家族が来たお陰か、急に回復し始めたとのことでした。結局はっきりしたことのわからないまま、それから2週間ほどで退院でき、またインドネシアに戻ったそうです。
かく言う私も、ずいぶん後ですが、タイで赤痢をもらい、保健所のお世話になったことがあります。いまだに熱帯地方の食事には恐怖心があります。
ー 遠い昔の思い出 7 ー
<1分の立ち話 >
昔、電子部品のEC (電子商取引 : インターネットを使って商売のための情報をやり取りすること)を推進するための様々な約束事を決め、世界標準にすると言う国のプロジェクトがあり、その事務局を担当したことがあります。
電子部品の呼び名や性能を表す言葉の標準を作り、その上で、「情報のやり取り」の標準を決めなくてはなりません。私は「情報のやり取り」の端っこがわかる程度で「電子部品用語の世界標準」などは全くの門外漢です。そのプロジェクトには日本の電子機器・半導体・電子部品の主な会社がこぞって参加しておりました。それを引っ張っている主査と呼ばれるリーダーのうちの2社と事務局で、ヨーロッパの会合に出かけたことがありました。
今から思うと、大雑把で腹の座った人達でした。というのは海外に出かけるのに、宿も飛行機も、途中の移動も事務局の一番下っ端のMさんに任せっきりでした。行く先だけははっきりしているのですが、飛行機も宿も何も知らないで「空港に何時集合」だけ聞いて集まるような人達です。年に何回も海外出張していて、下っ端のMさん自身も随分海外慣れした人でした。
空港で航空券を渡され、ドイツのフランクフルトへ向かいました。ご存知の通りフランクフルトは、ヨーロッパの中心で、ロンドンと並ぶ金融センターの大都市です。到着して、ホテルにチェックイン、翌日午後からそのホテルで会議でした。講演や討論会などがあったのですが、「電子機器とその部品に関する世界標準」というような話題は、文系の私にはちんぷんかんぷんです。ドイツの講演者が軍の人で、軍の真っ白な礼服姿で現れ、白い帽子を小脇に抱えて登壇したのを珍しく眺めていました。
その会議での私の大事な要件の一つが、以前からそのプロジェクトの事務局として連絡を取りあっていたフランスのDと言う人と会うことでした。Dさんは会議の何ヶ月か前に日本に来ていて、私達のプロジェクトの方向なども紹介していました。帰国後、私に大事な話があるのでぜひ会いたい、会議に来ないかとメールで言ってきたのです。
会議の後はよくある立食懇談会です。主査のMさんは随分場慣れした人で、いろんな人とビール片手に、まるで日本人相手のように挨拶・情報交換をして回っています。私は約束のDさんが見つからないので、ビールを持ってウロウロしていました
宴たけなわと言った頃、突然Dさんが目の前に現れ、挨拶もそこそこに耳元に「あなた方のとっている情報交換の方式は、まもなくダメになる。この方式(XML)に変えたほうがいい。ちょっと調べてみたら?フランスではこの方式を採用することにした。」といってウインクして、また人混みの中に消えていきました。
その間、ものの1分でした。
頭の中で、パーティの喧騒が消えて「そうか、エライ方向転換やなあ」と考えていました。そして、後日、委員会で検討した結果、やはり方式を変更しようという事になりました。この方式が今日のインターネット取引の基礎になっています。電子部品に関わる標準は、当時、日本が主導権を持つ数少ない世界標準になりました。